妻の詳細

妻は山形県生まれ。実家は専業農家。
父母と兄、父方の祖母の5人暮らし。

小さい頃は勝ち気で負けず嫌いな性格で、内気な兄がいじめられていると「お兄ちゃんをいじめるな!」といじめっ子に食ってかかるような子どもでした。




幼稚園に入る前からとても活発で家にじっとしていることができず、玄関の鍵を閉めていても廊下の掃き出し窓から靴を持って逃走することもよくあり、祖母を困らせたそうです。
ビニールハウスの骨組みに登ったり、木に登ったり、屋根に登ったり、父親の愛車の軽トラの荷台に飽き足らず屋根に上ってべこべこに破壊したこともあったそうです。…まったく記憶にありません(汗)
幼稚園では雲梯に登ったり山に登ったり、トランポリンを独り占めしたり、やりたい放題のガキ大将みたいな女の子でした。
そんなこんなで女の子とおままごとをしたりして遊んだ記憶がありません。

小学生時代は近所のお友達と遊ぶときはおとなしい女の子と遊ぶよりも活発な女の子たちや男の子たちと遊ぶことが多く、鬼ごっこしたり、自転車を乗り回したり毎日暗くなるまで外で遊ぶことが多かったです。

小学生の時に母方の祖母がリウマチに罹りました。
一緒に住んでいなかったし、小さい頃のことなのでずいぶん記憶はあいまいですが、少しずつ家のことができなくなり、そのうち自分のことも困難になってきました。
母方の祖母は一人暮らしだったので母が時々買い物をして届けたり、施設にショートステイをしたりしていましたが、中学生になるころにはほとんど動けなくなり施設に入所することになりました。

中学では柔道部に入部しました。

小学2年生から兄と一緒に柔道を習っていたので、成り行きで適当に入部した感じです。
顧問の先生は礼儀に厳しい先生だったので礼儀知らずだった私はいろんなことを学びました。
この頃の将来の夢は介護士だったように記憶しています。
理由は祖母の体が不自由だったので「祖母の面倒を見るのを手伝いたい」みたいな感じでした。

高校は地元の普通科の高校へ進学しました。
家から自転車で1時間近くかかるところで、電車も不便なので父に送り迎えをしてもらって3年間通いました。
部活はなぜか吹奏楽部でクラリネットを吹いていました。

もちろん音楽の経験はなく、楽譜もろくに読めない、指もあまり器用に動かなかったので曲を演奏するのはずいぶん苦労しました。
コンクール前には8時過ぎまで合奏練習をすることも多く、土日も部活、春休みも夏休みも冬休みも部活部活部活で過ごしました。
進学校だったので毎日の予習や復習、小テストや課題も多く出されました。
どうにかこうにか時間を作りなんとかこなし、提出物は期限までに必ず提出していました。
この勤勉さが後で生かされます。

この頃、何気なく受験雑誌を見ていたら「理学療法士」という職業を発見し「これだ!」と直感的に思いました。
そして将来の夢は「介護士」から「理学療法士」へと変更されました。

理学療法士になるには3年間か4年間勉強して国家試験の受験資格を得ることが必要です。
そのころ日本各地に養成校があり私が住んでいた山形県には県立の養成校と私立の専門学校がありました。
父親に相談すると「(金銭的に)国公立以外に行かせられない」と言われてしまい選択肢はぐっと狭まりました。
3年生になるとほぼ毎月模試があり、志望校も書かなければなりません。東北各地の公立の学校を片っ端から書きましたが概ねE判定…
ちょっと出来が良く手ごたえを感じてもD判定がやっとでした。
理学療法士が天職だと信じ込んでいた私は何とか養成校へ入る手段を模索していました。
部活を引退した夏に県立の大学に県民枠の推薦入試があることを知り、「これだ!」と思い、担任に相談しに行きました。
成績は中くらい(だったはず)でしたが、提出物の提出状況がよく内申点はそこそこよかったので、校内審査を無事通過し推薦入試を受けることができました。

推薦入試の問題は小論文と面接が中心だったので入試の数か月前から添削指導と面接練習をを受けることになりました。
最初は全く書けず、初めて書いた小論文は規定文字数の半分も書けませんでした。
その時の添削指導で言われた言葉は今でも鮮明に覚えています。
「お粗末ね。」
でした…

その後何度も添削指導を受け、そこそこ読める文章を書くことができるようになりました。
そして満を持して受験に臨んだのです。
小論文の出来はそこそこ。
面接では「うちの学校落ちたらどうするの?」「入学したらバイトとかするの?」「ボランティアってしたことある?」などなど想定外のこともいろいろ聞かれ、焦りながらもなんとか元気よく答えました。

合格発表は2週間後くらいでした。
結果は見事合格!

その日、自宅に帰ると速達で合格通知が届いていました。
夢じゃないか、何かの間違いじゃないかと何度も何度も見直しました。

花の女子大生になるんだ~と浮かれ気分でした。笑

しかし現実はそう甘くなく、一人暮らしを夢見るものの父の大反対にあい、一時間以上かけて電車を乗り継いで通う羽目になりました。

田舎の電車事情は大変厳しく、1時間に1本あればまだマシなほうで、授業は午後からなのにちょうどよい時間につく電車がなく、結局1限と同じ時間の電車に乗るとか、3限で終わるのに帰れないとかばかりでした。

3年生になると7月に4週間の臨床実習がありました。
私は実家から通えない距離にある病院に行くことになり、先輩たちが代々お世話になっている下宿屋さんでお世話になることになりました。
初めての実習、初めて4週間も親元から離れるなど不安はたくさんありましたが、なんとか「可」をもらい、初めての実習は終わりました。
その後、11月から12月にかけて7週間の臨床実習があり、実家から通うことができたのですが、睡眠時間が2時間あればよいほうで精神的にハードな実習でした。
毎日病院のトイレで泣いていました。

4年生になると5月から6月に7週間、最後の臨床実習があり、それが終わると卒業研究に取り掛かります。
その合間に就活。
県職員の試験を受けましたが落ちてしまい、3年生の7月に臨床実習でお世話になった病院の試験に合格し、無事年内に就活が終わりました。

そんなこんなで女子大生を満喫する暇もなくあっという間に国家試験がやってきました。
山形では受けられないのでお隣宮城県の仙台市まで電車に乗ってクラスのみんなと前泊して受験しに行きました。
今でも3月ごろになると国試を受ける夢を見ることがあります。それも全く準備していない状況で…。やばいやばいと焦っているうちに目が覚めます。

4月からはあこがれの一人暮らし。
慣れたら引っ越すつもりで、最初は最低限の家具がそろっている壁の薄いレオパ〇スに住みました。
ネット環境が整っていて、先輩の影響でニコニ〇動画にはまりました。
2年目の9月にイヤイヤ参加した東北各地の若者が集まる研修で後の夫と運命の出会いを果たします。

その時はまさか自分が山形から出てきて都会で生活することになるなんて全く想像していませんでした。